主人公は僕だった(映画)(+微妙に「天元突破グレンラガン」第8話感想)
(マーク・フォースター監督)
12年間変わらない規則正しい生活を送ってきた国税庁職員のハロルドは、
ある日自分の行動や心理を“小説のように”語る“謎の第三者の声”が脳裏に聞こえてくることに気づく。
そしてその声の語る内容が、“主人公である自分の死(文字反転)”を暗示している事を知ったハロルドは、なんとか“ストーリー”を変えられないかと苦闘するのだった…
■
…という話。
プロットを知った時点で面白そうだと思いましたが、
期待通りに面白く、奇をてらった展開では無くベタすぎもしない、傑作とまではいいませんが、ほどよく満足度の高い気の利いた良作でした。
“アイデアの勝利”とも言える作品で、一つのアイデアを上手く映画化した作品としては去年の「もしも昨日を選べたら」に感覚は近かったかも知れません。内容的には全然違うんですけど。
メタ的な構造という意味では「トゥルーマン・ショー」なんかも思い出したりして。
ネタバレ無しではなかなか語りづらい作品ですが、ホント面白かったですよー。
■てなわけで、以下はややネタバレモードで。注意のこと。
いいですか?
さて、
ぶっちゃけ、ハロルドは自分が「小説の主人公」となっていて、「これまで全ての小説作品で主人公を殺してきた悲劇作家」の手により「自分が作品内で殺されようとしている」のを知る事になります。
この『創作作品の登場人物の死』というテーマが色々考えさせてくれて面白い。
現実世界ではもちろん殺人は許されることではないのは言うまでもないですが、
小説・映画・漫画・ドラマといった創作では作家(創作者)ってのは、作品の為に必要なら登場人物をきっちり殺せるべきなんですね。
たとえどれだけ読者や視聴者から「●●を殺さないで」「復活させて」と懇願されようとも。
しかし、この作品では“実際に生きている主人公から”「自分を殺さないで」と懇願されてしまうのがミソであり、面白いところでした。そりゃあ、創作と現実では違いますわな。
そして、その後の主人公を含めた各登場人物の苦悩と決断が実に面白いところでした。「それでいいのか?」と突っ込みたくなるような所も含めて。
フィクションで“死を描く”という事は読む(見る)人に影響を与えかねない、色々な意味で責任の大きい行為で、大事な登場人物をあえて“殺した”上で“何を語るか、見せるか”こそが作品としては大事な所ですよね。
殺すべきところで殺さなければ、傑作であるはずの作品も凡作や駄作と化して“台無し”になってしまうのもよくある話ですし。 特にジャンプ漫画とか (笑)
(「るろ剣」とかねえ(^^;)、「リングにかけろ」くらいホイホイ生き返ると既に『芸』とも言えますが(笑)、「ワンピース」なんかも好きなんですけどね(笑))
■以下さらにラストネタバレ、文字反転注意。
今回の映画では結末も“こうなるしかない”と思えるものでしたが、それが決して安易なものとは感じられないのがいいですね。
結末の“理由”も気の利いたものになっていたと思います。
基本的にコメディ作品ですが、なかなかに真面目で前向きな結論が気持ちいいです。
自分も人生の主人公として、些細な日常を大事にしたいと、自然に思わせてくれる描写の積み上げも効いていて良かったですよ。
私の人生の中では私が主人公だと、さだまさしも歌ってますしねえ(笑)
ところで、
妻が言ってましたが、『小説の主人公の名前』を変えるなんて裏技もあったのではないかとも思えますが、それをやっちゃったら台無しですかね(笑)
ワープロならともかくタイプでは簡単には直せないだろうし。
とりあえず、今後はあの作家は『小説の舞台を過去に設定』すればもう問題は起きないかと思います(笑)
■しかしまあ…
よりにもよってこういう映画を
『天元突破グレンラガン第8話』
の放送日(20日)に観てしまったと言うのが数奇というか、
映画公開は19日からだったわけですが、タイミングが良すぎです(^^;;;
カミナの死は第1話の冒頭からすでに暗示されていたと思いますが、さすがにここまで早いとは本当に予想外でした。全26話として約3分の1ですか。
しかし、きっと『第9話』以降こそが制作者が描きたい部分なのだろうと思いますので、
中途半端な行方不明や生死不明ではなく、こうまできっちりカミナを殺してくれたのは作品的に真摯な姿勢だと評価したいところです。
まあ、最後までいかないと分からないんですけどね。
(「こんなこともあろうかと」「実はリーロンがカミナをコールドスリープしておいた」なんて温い展開だけは勘弁して下さい。アニキは大好きですがそんないい加減な事をやったらマジで怒りますんで(あり得ないと思いますが))
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